個別労働紛争のあっせんに求められるもの

労働局が行う個別労働紛争解決制度として「あっせん制度」がある。
平成13年度から始まったこの制度は年々その利用率は高まっているが、あっせんで解決する割合が3割程度と言われるほどどうも低水準である。
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2008/05/h0523-3.html

その原因としては裁判は強制であるが、あっせん自体に強制力がないからとも言われている。
一方労働審判制度は好調である。こちらは裁判などで長期化することの弊害を打破しようと、裁判の形式を取りながらも趣旨的には「話し合いによる調停」での解決を目指している。
http://www.courts.go.jp/saiban/syurui/minzi/minzi_02_03.html

両者の違いはいったい何が原因なのだろうか?

それはまずあっせんや調停にあたるあっせん委員(労働審判員)の姿勢や資質に寄与するところが大きいものがあると考える。
紛争の当事者はこれまでのトラブルでメンタル的にもズタズタに切り裂かれている。
言われも無き解雇通告でプライドや精神的にも相当傷ついている。
その人の感情を理解しないままに、あっせん委員が自分の思惑を進めていったらどうなるのだろうか。

とあるあっせんの場で、申請人たる女性の心情を察しないまま、あまりにも怜悧に人の心の中に土足で入り込むような詰問調の質問を繰り返したあっせん委員に対して、とうとう申請人の感情が爆発した。
「(弁護士)の先生はさっきから私の事を責め立て一方的に悪いかのように言われているけど、私どもが出した陳述書はちゃんとお読みになっていただいているのですか?
そのうえでご質問を浴びせかけているとは思えないのですが。」と思わず彼女の心が耐えきれなくなって涙を流し泣きながら悲痛を上げた。

傍らでやり取りを聞き、時には申請人を補佐していた私も、この場があっせんなのかと申請人に対しては厳しすぎる質問が多いとは正直感じていた。
追加の陳述書まで作成し提出したのに、冒頭からあっせん委員が私たちの要望とは、別の方向で聞き取りをして話しをまとめていこうとするのがみょうに気にはなっていた。

確かに彼女が言うように陳述書の内容をしっかりと把握されていたとは思えない節が多々あった。当事者の彼女としては、中立的な立場である委員にきちんと自分たちの経過や真意を読み取っていただけなかったのがとても悔しかったに違いない。

先頃裁判制度を取り上げた映画「それでもボクはやっていない」を見て心に残ったことがある。
電車内での痴漢えん罪に巻き込まれた青年が勇気を振り絞り裁判に立ち向かったストーリーであるが、周囲の人たちの応援も受けたが、不当にも有罪の判決を受けてしまった。
そのとき毅然とした姿勢で判決を聞く彼が「本当に裁かれているのはその裁判官の良心なんだ。」と心の中でつぶやくのが印象的であった。
その映画の場面でうがった見方で裁判官から質問を繰り返され、とうとうその被告が感情的となって気持ちが高ぶり、不利な状況を意図的に作り出されるのも印象として残っている。

思えば彼女としてはそのような状況であったのかもしれない。
やはり、あっせんという制度が当事者の心を傷つけることを増幅するだけのものに終わったのならばその価値は無いだろうし、これに立ち会わせるのも気が引けてしまう。

「あっせん」はもともとそのようなものでないし、これで全てが解決できるとは当事者も思ってはいないだろう。ただ一抹の期待を賭けてこの日に緊張しながら不安な気持ちで臨んでいるのである。
それらをまず配慮していただいたうえで交渉の仲立ち人として努めていただくことを、「あっせん」にあたられる委員には強く求めたい。
また裁判員として選ばれることがあればやはり相当に慎重に考えざるを得ないだろうと私は思う。